さて今回は、豊臣政権の中枢を担った五大老と五奉行についてお話しようと思います。次回・第40回のあらすじには、〈秀吉の遺言に従い、家康は五大老たちと政治を行おうとするものの、毛利輝元や上杉景勝は自国に引き上げ、前田利家は病に倒れる〉とあり、ここにおいてようやく五大老と五奉行が登場、合議制によって政治を行うシステムがドラマでも稼働し始めることになりそうです。毛利や上杉といった大老たちが上方から領国に帰ってしまう理由については、史実においては秀吉の死後、我が物顔の振る舞いが増えた家康に辟易したから……と考えるのが客観的には正しいのでしょうが、ドラマではどのように描くのでしょうか?

 秀吉の晩年以降の豊臣政権における合議制についてですが、ドラマでは、三成が発案して提言し、病床の秀吉が「わしも同じ考えよ」と賛同、「よい。やってみい」と許可を出して始まった……という描かれ方でした。しかし史料を見渡すかぎり、五大老と五奉行という合議制が誕生したのは、晩年の体調悪化にともなって秀吉が、長年の親友である前田利家だけでなく、ライバルであるはずの徳川家康にも何度も頭を下げ、秀頼を中心にした豊臣政権が一日も長く延命できるようにと、できるかぎりの手を尽くした結果によるものだといえるでしょうか。

 ドラマでは、秀吉が甥の秀次を自害にまで追い込んだ「秀次事件」について家康の「秀次様を死に追いやり」というセリフで触れられた程度でしたが、秀吉は、関白の座を譲った秀次を謀反の疑いで切腹にまで追い込んだのみならず、秀次の一族ら関係者までも大量処刑しました。朝鮮出兵についてはドラマでもその残酷さがわずかに触れられていましたが、晩年の秀吉は異常なまでに専横的だったのです。その秀吉が、ドラマでも家康に頭を下げるシーンがあったように、死期を悟るやいなや態度を一変させ、いじらしく「秀頼のことを頼む」という遺言状を何通も有力者に送ったり、彼らに「謀反は起こさない」と誓わせたりするようになったというのは、哀れというしかありません。

 しかし、そうした遺言状や誓詞状も、秀吉の死後、家康の手で反故にされていったのが残酷な史実です。晩年の秀吉が心血を注いで作り上げた五奉行と五大老といった政治の枠組みが有名無実化したのは、本当に一瞬のことでした。