ところで、それぞれの役職に「大老」あるいは「奉行」という呼称が定着したのは、いつだったのでしょうか。家康の侍医だった板坂卜斎(いたさか・ぼくさい)が、慶長3年(1598年)7月ごろに「御家老」と「五人の奉行」が定まったのだと、我々に馴染みのある呼称で証言をしています(『慶長年中卜斎記』)。五大老のほうが上位で、五奉行が下位というイメージがあるかもしれませんが、実際は多くの時期において、現代日本の参議院(上院)と衆議院(下院)の関係に例えられるような関係だったようですよ。

 五大老と五奉行を構成した面々をあらためて見てみましょう。五大老が徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家という五名の大大名で、その彼らに比べると、五奉行は、秀吉の片腕として政治を支えてきた増田長盛(ました・ながもり)、長束正家(なつか・まさいえ)、浅野長政、前田玄以、石田三成という五名の官僚たちで構成されています。

 当時の政治では所領の広さ=発言力の大きさであり、その点において五奉行の5名は五大老に劣る存在でしたが、豊臣政権における大老と奉行の関係はフラットに保たれるよう、苦慮されていたようです。しかしそれも、秀吉の病気が悪くなるにしたがい、政権奪取に向けた家康の暗躍を抑えられなくなりました。そして、奉行よりも大老のほうが名実ともに上格であるという認識が世間にも広がったことを象徴しているのが、慶長3年7月――つまり秀吉の死の1カ月半ほど前に「御家老と五人の奉行が定まった」とする板坂卜斎の証言なのかもしれません。

 それでも秀吉の死後しばらくの間、大老たちは、奉行は自分たちと対等であると世間にアピールするべく苦心していた側面もあったようです。大老のひとりの毛利輝元が慶長3年(1598年)8月28日付で奉行である前田玄以に書き送った書状に、興味深い表記が見られます。輝元は、この書状において自身を大老ではなく、「奉行」と記しているのです。中国地方に120万余石を有する大大名である毛利輝元と、丹波亀山5万石の前田玄以では大きな身分差が存在することを考えると、地位の高い輝元がへりくだり、わざわざ前田玄以と同じ「奉行」という呼称を使ったとも考えられます。