結局、史実の伊周も逃げ惑うのに疲れ、検非違使のもとに出頭し、太宰府(現在の福岡県)に流されることになりました。しかし、伊周・隆家兄弟は「長徳の変」の早くも翌年、つまり長徳3年には罪を許され、京都に帰ることができました。この背景にあったのも、やはり藤原詮子の体調不良でした。史実の彼女は弟・道長がでっち上げの罪で苦しめた相手を「恩赦」することで、なんとか病からの回復を願ったらしいのです。この時、隆家や、その父・道隆の「霊」に詮子や道長が悩まされていたという記述が史料に見られ(『権記』)、非常に面白いのですが、ドラマでも描かれるかもしれませんので、これについてはまた後日……。
兄・伊周が無様に逃げ惑う中、屋敷に踏み込んできた検非違使たちを前に定子が小刀を振りかざし、喉を突く付くのかと思いきや、黒髪が束になって廊下に落ちたシーンについても最後に補足しておきますね。
史実でも定子は、不甲斐ない兄たち二人を匿ってしまった自分の罪の責任を取るべく、そして兄たちの罪を軽くしてもらえるよう、ドラマで描かれたように髪の毛を一部切り取って出家の意思を示したそうです(『小右記』)。
しかし、事実上は出家した身にもかかわらず、定子は一条天皇の後宮に戻り、猛批判を受ける中で天皇からふたたび寵愛され、複数の御子を設けることになりました。花山院のケースもそうでしたが、出家者の色恋は当時のルールでは大スキャンダルでしたから、そのあたりに道長が付け込み、愛娘・彰子を入内させ、定子から一条天皇の寵愛を奪いとる余地があったのでしょうね。盛り上がってきた『光る君へ』、今後が楽しみです。
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