坂上田村麻呂には(主にアメリカなどで)由来不明の黒人説もあるのですが、ペルシャ系か、ヨーロッパ系の血を引いていたのではないかと思われます。そういう坂上田村麻呂の血統を引いた清和天皇の子孫が、後に清和源氏の一派を形成し、その血統から多くの武人が生まれていったのは興味深い話ではあります。

 また坂上田村麻呂が青年だった宝亀9年(778年)11月には、日本から遣唐使として派遣された藤原清河という人物と、中国人女性(氏名不詳)との間に生まれた、その名も喜娘(一説に「きじょう」)という女性が、海難事故を乗り越え、来日したという記録もあります。残念ながら、その後の喜娘の人生については不明なのですが、中国に帰ったという話はないため、おそらく日本のどこかでひっそりと生涯を終えたのでしょう。

 中国の役人が外国を訪れ、現地の女性との間に子をもうけることも多かったようです。しかし、妻子を連れて中国に戻ってはいけない、つまり現地に妻子は置いて単身で帰りなさいという厳しい掟がありましたが、それはあくまで「公人」である役人の話で、ドラマのように商人とか医師見習いといった「私人」と外国人との関係はまた別枠だったかもしれません。ちょっとマニアックな話になってしまいましたが、今回はこの辺で……。

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