史実でも長徳2年(996年)1月25日、為時が淡路守に任命された記録がある一方、28日にはなんらかの事情で「直物(なおしもの)」が行われ、越前守に役職が変更されました。この背景を正確に語る史料は存在しないのですが、以前にもお話した通り、後世の逸話においては、為時が一条天皇(ドラマでは塩野瑛久さん)に自身の語学力を漢詩を通じてアピールし、宋人商人が来日して問題となっている越前国の国司に任命してほしいと願い出た(鎌倉時代の説話集『古事談』など)ということになっています。

 実際、越前国において、史実の為時も得意の漢詩で宋人たちと交流し、特に宋人商人たちのリーダー(書物によって「周世昌」あるいは「羌世昌」とも)から喜ばれたという認識があったようです。実際、ドラマのようにいい雰囲気になったのではないでしょうか。このときに詠まれた為時の漢詩は、『本朝麗藻』など、日本人が作った漢詩文を収録した書物にも見られ、為時自身だけでなく、他の日本人も彼の漢詩を優秀だと考えていたことがうかがえるのですが、中国側の本当の評価は辛辣なものでした。

 中国側の記録『宋史』にも世昌と為時とのやりとりが記録されているのですが、「世昌以其国人唱和詩来上、詞甚雕刻膚浅無我取」などとあります。この部分を意訳すると、「世昌は為時と(漢)詩を唱和しあったが、為時の言葉選びには深みが足らず(描写が浅く)、評価に値しないと感じてしまった」そうです。それゆえ、史実の紫式部も苦戦する父親の姿を見てショックを受けたのではないかと考える研究者もいるのです。

 ちなみに宋時代の中国は海外との貿易を建前上は禁止していたので、中国の公式歴史書でもある『宋史』には、本当は貿易目的で来日した世昌も、漂流した末に日本に漂着してしまったということになっています。また、中国史における外国の記述は、古代から中国を持ち上げ、他国を貶める内容ばかりですから、漢詩人・為時の評価についても故意に低く書かれていて当然と読むべき部分かもしれませんが……。