為時の漢詩文の真の評価とは別に、朝廷のお抱え学者の漢文能力の微妙さについて筆者が思い出してしまうのは、鎌倉時代の末に、中国・元王朝のフビライ・ハーン(クビライ・ハーン)から「元寇」を受けた時の逸話です。フビライは自国兵だけでなく、高麗(朝鮮)などの属国からも軍船などの物資、そして兵士を動員させた“連合国軍”を作り上げました。そんなさなかの文永8年(1271年)、“パルチザン(非正規軍)”を率いて元と戦っていた三別抄という武将が、窮地の日本側に共闘を呼びかける手紙を送ってきたことがありました。しかし、漢文で書かれたこの手紙の表現が難しすぎて、ときの朝廷の御用学者たちは理解することができず、三別抄からのありがたい申し出を無視してしまったのです。

 三別抄は高麗人(朝鮮人)で、母語が中国語ではないため、彼の漢文には独自の言いまわしがあったのかもしれませんが、手紙の現物は現存せず、公家の日記に一部が引用されているだけ……というあたりからも、朝廷の御用学者が自分たちの無能力を上層部から責められることを恐れ、廃棄したというシナリオが想像されてしまうのでした。

「元寇」があった鎌倉時代後期と、紫式部や為時が生きた平安時代後期は、多少は離れた時代ではありますが、朝廷付属の大学などの専門機関で長年かけて学んだエリートでも、実地経験のない語学能力というのはあまりパッとしないのが「ふつう」だったのではないでしょうか。

 もちろん、日本国内で勉強しただけでも、中国本土にわたり、現地の中国人を驚愕させるほどの漢詩文の才能で知られた空海などの日本人もいるにはいますが、それはレアケースでしかなかったのです。