道長は、定子の廃后も匂わせたようです。定子が后の身分を失うと、一条天皇は定子を愛す理由がなくなります。彼女とは絶対に会えなくなってしまうので、天皇は道長に屈するしかありませんでした。道長は、一条天皇の母后である詮子(ドラマでは吉田羊さん)も動員して圧力をかけています。このようにして、道長は天皇をチームで取り囲んで、なんとか説得に成功したのでした。
前回のドラマでは、詮子が「自分のようなつらい思いをさせたくないから」と手塩にかけて育てた我が子・一条天皇から、「朕は母上の操り人形だった」などとなじられ、ショックのあまり涙するシーンがありました。がんばって子育てした結果がこれか……と落胆するのは現代の親なら誰しも経験し得ることでしょうが、史実の一条天皇は「母子対決」など行おうとせず、最後まで詮子に弱かったようです。
こうして「中宮」だった定子は「皇后」となり、道長は彰子を「中宮」にすることができたのですが、その結果として、一人の天皇に二人の“ファーストレディー”がいるという、論理的・倫理的に奇妙な状態が宮中に訪れました。
「誰が一番えらいか」が曖昧になった後宮では、二人いる“ファーストレディー”のうち、天皇の寵愛を強く集めた女性が勝者となるわけですが、このような「女の戦い」が勃発することを、当時の貴族社会は嫌いました。史実の平安時代の宮中は、フジテレビ版のドラマ『大奥』のように「女の戦い」が容認される世界ではなかったのです。
とはいえ、この当時、まだ数え年でも12~13歳だった彰子は、生来の内向型ということもあり、彼女より12歳も年上で、天皇からの寵愛をガッチリと握って離さない定子の前に手も足も出ない状態だったとは思われますが……。