しかし、彰子の入内が世間に知らされた直後の9月8日、なんと宮中・一条院宿所の軒下から、野犬に噛まれた形跡のある子どもの死体が発見される怪事件が発生しました。当時の宮中はガードがゆるく、不審者が侵入することも稀ではありませんでしたが、これはおそらく、中関白家(伊周・隆家兄弟)の手下の者による「嫌がらせ」だと思われます。

 道長の日記『御堂関白記』にもこの事件は記され、本来ならば娘の入内という一世一代の慶事を汚す「ケガレ」であり、入内の延期も考えねばならないのですが、道長はまったく取り合わず、11月1日、彰子は予定通り一条天皇に入内してしまったのです。

 無口で内向的だった彰子ですが、それゆえスキャンダルの類からは完全に無縁だったので、後に彼女は「賢后」と呼ばれることになりました。しかし、そういう高評価を得られるまで、彰子が世間からどう見られていたかというと「地味」のひとことだったようで、必ずしも天皇の寵愛をつかむ道のりも順調ではなかったようです。

 定子が難産で亡くなるまでの約1年、それぞれに女房たちを集めていた彰子と定子の「サロン」はどちらが天皇や公卿たちを呼び込むことができるかを競い合っていたのですが、この対決の勝者は、誰の目から見ても定子だったことは明らかでした。「出家者」という難点はあるものの、人柄に華があり、周囲に才能が自然と集ってくる雰囲気の定子にくらべ、若い彰子は地味で、さらにそういう娘を「場」から浮かせないようにしたい道長の戦略ミスもあり、彰子の周辺に集められた女房は彰子と同年代、それも名家のお嬢様ばかりで、見目麗しいけれど一緒にいても楽しくない女性ばかりだったようです。また、彰子自身もそういう女房たちをうまく扱えていなかったようです。