史実の彰子も、道長の出世栄達のための「いけにえ」であったことは間違いないのですが、ドラマと大きく違うのは、一家をあげて彰子を天皇に入内させるべく英才教育を施していた形跡が、残された史料の行間から感じ取れる点です。

 かつては倫子の女房としてドラマにも登場していた赤染衛門(凰稀かなめさん)によると、平安時代では現在のお手玉のような要領で小石を使って遊んだものですが、道長は彰子がそういう「石などり」に使うための小石を、わざわざ後宮の庭から拾ってきて与えていたそうです。

 しかし、逆にいうとこれくらいしか彰子の少女時代を語るエピソードは残されていないので、それはすなわち彰子が普通に考えれば、後宮のライバルたちを蹴散らせるような華やかな人柄ではなかったことを意味しているような気がします。実際に、彰子は成長した後もドラマ同様に無口で、悪くいえば気が利かない女性であったようですよ。

 ドラマでも少し描かれましたが、長保元年(999年)正月(1月)、一条天皇は定子を職御曹司から内裏に連れ込むという禁を犯し、しかもその時に彼女は懐妊しました。出家者である定子に対する天皇の寵愛は当時の倫理ではよろしくなく、批判が高まっていたこの年の2月、道長は12歳になった彰子のために当時の成人式に相当する裳着(もぎ)という儀式を多くの公卿たちが見守る中で執り行ったのです。