しかし、そんな廃屋同然の建物にもかかわらず、天皇は頻繁に定子を訪ねてきたようですし、定子もお産などの時に別の建物に移動する以外は、2年以上を職御曹司で過ごしていたのです。
ただ、中宮とその側近たちという大人数がスムーズに移り住むことができるような規模の「空き家」が、なぜ存在していたのかを疑問に感じる方がおられるかもしれません。職御曹司の建物が使われていなかった本当の理由は、そこが「鬼」が住む家だとされていたからのようです(斎藤雅子『たまゆらの宴―王朝サロンの女王藤原定子』文藝春秋)。現代とは比べ物にならないくらい迷信深かった平安時代に、いくら一条天皇から強く求められたとはいえ、「鬼」の住処に移住してしまう藤原定子、そして彼女に付き従った清少納言(ファーストサマーウィカさん)などの女房たち、そして一条天皇もかなり「強気」だったことが推察できますね。
ちなみにドラマでは一条天皇が定子におぼれて政務がおろそかになってしまうという描かれ方でしたが、史実の一条天皇は若年ながら(当時20代前半)、政務に熱心な帝だったと知られています。
長保元年(999年)には一条天皇そして道長による主導で、深刻な社会不安を鎮めるべく、「制美服行約倹事(服装の贅沢禁止)」などが定められました。同時に「仏神事違例(仏事・神事における違反)」も戒められたのは、いかにも平安時代ですが、天皇みずから自分が定めた「新制(新しい制度)」を役人たちが厳密に守っているかを監視し、不満な場合は蔵人を通じ、注意していたことまでがうかがえるのです(藤原行成の日記『権記』)。