それと同じことが、このドラマ全体でも起こっていたように感じるんです。「366日」という曲を聞いて、大いにインスピレーションを受けたのはいい。自分がドラマをプロデュースして、立派なスタッフを集めることができる立場にいるから、「366日」というドラマを作りたい。そこまではいいんです。
普通、そのインスピレーションをエンタメに変換する、クリエイティブを与えて作品として成立させるという作業が行われることになるんですが、このドラマは、インスピレーションや感傷をそのまま発表してしまっている。メッセージを届けようとも、今現在作るべきおもしろい物語を届けようとも思っていない。最終回でヒロインに「それでもいい」って言わせたい。そういうむき出しの欲望しかない。
ハルトがレストランの公共性というものを意識できなかったのと同様に、このドラマのプロデューサーはテレビ電波の公共性に意識が行き届いてないんです。
大人として、けっこう恥ずかしい仕事だったと思いますよ。力を持った大人が、こういう振る舞いをしてはいけないという反面教師みたいなドラマだったと思います。あくまで個人の感想ですけど。
(文=どらまっ子AKIちゃん)