まひろと、ききょうの二人はともに「漢詩の会」の講師に呼ばれた知識人の父親を持つ娘として、高貴な方々の社交の場にお相伴したという、まるでヨーロッパの貴族の姫たちが社交界デビューするような描かれ方でしたが、史料的に裏付けがあるわけではありません。しかし、当時の日本ではすでに「女性は家にいるべき」という儒教的道徳観が根付きつつあり、そうした事情を反映して正式な記録としては残されていないだけで、実はそういうこともあり得たのかもしれないです。この問題については今回のコラムの後半部で考察してみます。

 さて、次回は作文会に続き、打毬(だきゅう)の場面が出てくるようですね。

 打毬競技は、日本では「まりうち」とも呼ばれ、平安時代の貴族たちが楽しんだスポーツです。当初は宮中で、華やかな国家行事として開催されていました。毬場と呼ばれる競技フィールドに、馬に乗った唐装束(=中国風の装束)の舎人(=とねり、天皇や貴人の側に仕える年若い貴族の子どもたちの呼び名)たちが二手に分かれて布陣し、毬場に投げ込まれた毬を、それぞれが手にした曲杖を使いながら、毬門というゴールに多く放り込んだほうが勝ちという競技です。

 もともと打毬はペルシャ発祥の競技で、それがシルクロードを通って唐代中国に伝わり、さらに中国から奈良時代の日本にも伝わったとされています。ペルシャからヨーロッパ方面に伝わった競技の後の姿が、イギリスなどで有名な現代のポロですね。

 騎馬打毬には高い運動神経と馬を操る技術が必要なので、日本では徒歩で行われる機会が増えました。同時に中国風から日本風の装束で行われるようになり、宮中の国家行事から、貴族の私邸でも行われる人気競技として、鎌倉時代になるまで競技人口を増やしていったのです。