朝廷は(おそらく陰陽師の占いで決まったのであろう)北野地区の船岡山山頂に行疫神スサノオノミコトの神霊を遷すための神輿を2基作らせて奉納し、そこで僧侶に読経させたり、楽人を招いて音楽を演奏させたりしたそうです。「疫病対策」といっても、こうした神事・仏事の儀式をするか、あとは元号を変更するということくらいしか、平安時代の役人たちに難局を乗り越える発想はなかったのです。

 ちなみに清少納言が一条天皇の中宮定子に出仕し始めたとされるのが、疫病が平安京に蔓延し始めた正暦4年(993年)だったのですが、こうしたネガティブな事件は『枕草子』には絶対に書き留められていないことは注目に値します。ドラマ同様、史実の清少納言も定子という女性に惚れ込んでいましたから、定子とその父・藤原道隆が存命していた頃の「中関白家(なかのかんぱくけ)」の栄華だけを『枕草子』には描き込んだのですね。

 ちなみに「中関白家」という呼称がすでにドラマにも登場していますが、「藤原家ではないの?」と思った方もおられるでしょう。史実でこの呼び名が文献などに登場するのは、鎌倉時代に入った12世紀くらいからで、藤原兼家と道長の間の時期だけ、全盛期を謳歌できた関白家という意味で、藤原道隆とその子どもたちが「中関白家」と呼ばれたのでした。ドラマでは放送開始直後、藤原兼家(段田安則さん)が健在だったころは「右大臣家」などと言っていましたが、「ほぼ全員が藤原」という、複雑な状況をわかりやすくするためにドラマで用いられている演出上の工夫として受け止めるとよいのではないでしょうか。

 清少納言の『枕草子』だけでなく、紫式部の『源氏物語』にも、おそらく意図的に描写を自粛されたネガティブな事件が、一条天皇の時代に頻出した内裏の火事です。ドラマのように付け火でボヤが出るのはまだマシなほう。当時は、天皇やその側近に不満を抱いている誰かによる嫌がらせの放火でさえも、怨霊の仕業として片付けてしまうことが多かったのには苦笑せざるをえませんが、一条天皇は長保元年(999年)から寛弘2年(1005年)までの約6年間に、3回も内裏が全焼して焼け出されています。止まらない疫病に相次ぐ火事……まさに「泣きっ面に蜂」でした。