史実の悲田院は8世紀、つまり奈良時代の興福寺に起源がある福祉施設で、現代でいう病院というより、孤児たちと行き場のない貧しい病人たちを匿うための場所として始まり、平安京でも10世紀くらいまでは東西の2箇所に存在したといわれています。九条大路南方、東端あたり――鴨川の近くにあったとされる「鴨河悲田」が東悲田院、九条大路南方、西端あたりにあったとされる「悲田院南沼」が西悲田院と呼ばれ、疫病が流行すると道端で行き倒れている貧困層の病人が運び込まれたようです。

 しかし、ドラマで描かれていた道長の看病が一晩中、まひろの額を冷やしてやるくらいしかできなかったように、悲田院でも具体的な効果がある医療行為が受けられたかは疑問です。上流貴族であったところで、闘病となれば医者から気休めの薬を飲まされ、ドラマの道隆のセリフにもあったように「僧侶に読経させる」くらいしかなかったのですから、自身の免疫しか頼れるものがない時代に生きるというのはかなりハードですね。

 同様に、当時の朝廷が行える具体的な疫病対策などなく、行った対策といえばドラマには出てきませんでしたが、菅原道真(故人)に「左大臣・正一位」という高い官職を与えたことくらい。「死者を出世させて、高い官職を与えて意味などあるの?」と思うでしょうが、何か悪いことが起きれば、かつて藤原氏に権力の座から引きずり降ろされ、九州・太宰府に流されたまま無念の死を遂げた菅原道真が怨霊となって平安京に悪さをしてきたと当時では考えるしかなかったのです。道真の慰霊をして「もう大丈夫だろう」と納得していたのですね。

 この年の秋に「疱瘡」が流行してからは、道真は「太政大臣」にまで出世しましたが、当然ながら効果などなく、翌年つまり正暦5年(994年)には新たなる疫病の大流行が始まりました。えせ預言者が巷に現れ、「左京三条南、油小路西にある小さな井戸の水を飲め。病気にならないで済む」というので、身分の上下にかかわらず多くの人々が群れをなしてその井戸に詰めかけたそうです。逆にこれで感染が広まったのではないか……と思われますが、当時の人々にもそういう感覚はあったらしく、次の段階では平安京の誰もが家の外に出ようとしなくなって門を閉じ、逼塞する事態になったとか。『枕草子』でひたすらに華麗な日常が描かれている一条天皇の治世ですが、内裏の外は「死の都」となっていたのでした。