日本側も、明国の使者たちにすべてを任せていたのではありません。朝鮮半島に渡り、現地の朝鮮、そして明国側と交渉を試みようとした1人が、加藤清正でした。慶長2年(1597年)、清正は朝鮮半島南部の多大浦に上陸するやいなや、美濃部金太夫という通訳を朝鮮の首都・漢城へ派遣し、清正とも面識がある学僧・惟政(いせい)を呼びました。そして秀吉からの朝鮮王への和議の条件――「朝鮮領土の割譲」「朝鮮の王子や大臣を人質として差し出せば、日本軍は攻撃はやめる」などを改めて朝鮮王に伝えさせようとしたのですが、惟政は笑止とばかりに取り合おうともせず、交渉はその場で決裂しました。

 慶長の役において、秀吉軍はかつてのような快進撃を繰り広げられませんでしたが、勝利の報せだけを待ち望んでいる秀吉の顔色をうかがわねばならない……という事態に兵たちは苦慮し、朝鮮兵、民兵だけでなく、非戦闘要員である民衆たちの鼻や耳までを削ぎ落として塩漬け、酢漬けにし、名護屋城の秀吉のもとに送るという愚行をしでかします。すべては秀吉を喜ばせるためでした。哀れな犠牲者たちの耳や鼻は、現在も京都の豊国神社内の「耳塚」に埋められています。

 しかし、一進一退を繰り返すだけの戦局に飽きてしまった秀吉は、文禄2年(1593年)8月に茶々が拾(ひろい、後の秀頼)を出産すると、それからは大坂城に居付いてしまい、名護屋城には二度と帰りませんでした。そしてそれから5年後の慶長3年(1598年)8月に秀吉は亡くなっています。朝鮮出兵の最中ということもあり、「太閤殿下」にふさわしい盛大な葬儀が行われることはありませんでした。いくら秀吉が莫大な財力を誇り、「黄金太閤」と呼ばれていたとはいえ、莫大な経費を朝鮮出兵に投じてしまったため、華々しい葬儀の費用を工面しづらいという側面もあったのだと思われます。

 亡き秀吉に代わって徳川家康がリーダーシップを発揮したことで、秀吉の亡くなった慶長3年のうちに朝鮮にいる軍勢の引き揚げが開始され、全軍撤退となりました。秀吉の死、そして完全に尻すぼみに終わった朝鮮出兵によって豊臣家の勢力は大きく衰え、家康は大きく名を上げるということになったのですが、ドラマではこうした過程はどれぐらい描かれることになるでしょうか。