実は文禄2年の来日時の和平交渉では、明国からの副使・沈惟敬が、日本側の担当者・小西行長と共謀していました。共に相手国が降伏したと説明し、強引に講和を取り付けようとしたのです。相手が降伏したと信じたからこそ秀吉も明の皇帝も講和の条件が強気だったわけですが、沈惟敬と行長たちは、秀吉からの「皇帝の娘を天皇に嫁がせろ」などという身の程知らずの要求を明の皇帝には告げず、代わりに「秀吉が、大明帝国の冊封体制に組み入れてもらえることに感謝していると言っている」という虚偽の情報を伝え、強引に交渉を進めようとしました。日本は明には到底かなわない、時間が経てば秀吉という頭のおかしな老人も正気を取り戻してそのことに気づき、このあたりがよい手の打ちどころだと理解するのではないか……という期待が、沈惟敬と行長にはあったのかもしれません。正使の楊方亨も、沈惟敬に説得されてしまったようです。

 しかし、秀吉がそんな「理解」にいたることはなく、使者たちの持ってきた明からの書状を読んだ秀吉は怒り狂って戦闘再開を宣言、ふたたび朝鮮への出兵が決定しました。こうして翌・慶長2年(1597年)、14万もの兵が朝鮮半島に渡り、慶長の役が勃発することになるわけです。

この時、交渉を決裂させてしまった楊方亨たちはというと、皇帝に真実を伝えることができなかったばかりか、交渉決裂後だったにもかかわらず「明国の属国に加えていただきありがとうございます」という秀吉からの「謝恩表」まで偽造し、北京に送ってしまっていました。「秀吉との講和成立」の速報に胸をなでおろしていた明国政府は、朝鮮王からの「日本が再度攻めてきた」と援軍を再要請する使者がやってきたことで、「これは一体どういうことだ」との困惑が広がることになります。そこに楊方亨たち一行がノコノコと北京に帰京し、捕縛された彼らは尋問を受け、秀吉が降伏したなどの話がすべて捏造だったと発覚、死罪となりました。

 ドラマでは、朝鮮水軍に秀吉軍が敗れているとの情報を聞きつけた家康が「太閤殿下はご存じなのか? なぜお伝えせぬ?」と問うと、三成が「殿下に何をお伝えし、何をお伝えせぬかは我らの裁量」と言っていましたが、それは史実の明国の使者たちが皇帝に対して行っていたことでもあります。