さて、次回・第39回のあらすじにはこのような文面があります。〈茶々に拾(後の秀頼)が生まれた。家康の説得により、明との和睦を決めた秀吉。しかし、石田三成たちが結んだ和議が嘘とわかると、朝鮮へ兵を差し向けると宣言、秀吉の暴走が再び始まった〉。この「和議が嘘」だったというのは、双方の国に対して「相手が降伏した」などと虚偽の説明をしたということなのですが、「相手の国に向こうの国が降伏したとの偽りの情報を与えて講和させようとしたところで、うまくいかせるのは難しいのでは?」という疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。しかしこれはフィクションではなく、史実にあった本当の話で、現代の視点から見るとありえないように思えますが、これがうまくいきかけたのは、当時だからこそ、といえるかもしれません。今回はこの和議がどのように行われ、破綻したのか、お話ししましょう。

 詳しくお話しするまえに、まずはドラマで描かれなかった秀吉の「海外政策」についておさらいしておきましょう。秀吉が「朝鮮・明国の征服」という途方もない野望を抱き始めた時期は、天正18年(1590年)の「日本平定」より2年も前から始まっていました。秀吉は、対馬の大名・宗義智(そう・よしとも)に命じて朝鮮王の政府に使者を送らせ、「我が軍勢は陸路で明国を攻撃する予定だから、朝鮮は日本の属国となって、その道案内をしろ」という、むちゃくちゃな交渉をさせたのです。当然ながら朝鮮政府からは相手にされず、ハネつけられてしまいました。朝鮮を属国にしたかったのは、秀吉には日本軍の弱点が水軍という認識があり、朝鮮の強い水軍を味方に引き込みたいという目論見があったからです。

 朝鮮政府から自身の野望を鼻で笑われてしまったことに秀吉は立腹し、肥前・名護屋城の建築を進めました。そして文禄元年(1592年)4月、「明国への道を借りる」という名目で総勢16万人もの大軍勢を朝鮮半島まで送りこみ始めます。これがいわゆる文禄の役です。

 この時、朝鮮の高官たちは国内の権力闘争に溺れるあまり、秀吉軍への対応が遅れてしまいました。このため、秀吉軍は進軍開始からわずか一カ月で、朝鮮半島の南端から首都の漢城(現在のソウル)までを支配下に置くことに成功し、当地の人々に日本風の名前を名乗らせたり、日本風の髪型の強制などもしています。この勝利はきわめて一瞬でしたが、秀吉はめっぽう気を良くし、ドラマ同様、「後陽成天皇に明国皇帝となっていただき、甥の秀次を明国の関白に据える」などと口走っていました。