会津征伐に向けて江戸にいた家康は、三成たちに怪しい動きがあることは察知していたものの、7月21日、上杉討伐軍の進軍を開始しています。伏見城が攻められているという具体的な情報を家康が掴んだのは進軍から3日後、24日になってからでした。現在の栃木県にいた家康らは諸将を集めて軍議を開き、会津の上杉景勝に背中から討たれぬよう一部の兵は留め置くが、上杉討伐のために集めた大量の物資、兵士を使って西軍を討つべく、上方に引き返すことを決定しています。いわゆる「小山評定」ですね。この評定では、三成の発案で妻子を人質に取られていた大名たちも多いなか、山内一豊や福島正則といった豊臣恩顧の大名たちが家康に味方すると表明し、家康有利に状況が大きく動くことになります。

 上方に戻る家康の「東軍」と、東軍を打つべく上方から進軍してきた「西軍」が相まみえたのが、美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原でした。関ヶ原の戦い自体は開戦日である9月15日に終わってしまいましたが、その前哨戦は7月から始まっていたわけですね。

 関ヶ原の戦いがわずか一日足らずで終結した背景には、西軍の総大将だったはずの毛利輝元の裏切りが大きく影響しました。関ヶ原開戦の前日(9月14日)、大坂城から一歩も出ぬままだった輝元は、井伊直政・本多忠勝の仲介のもと、家康との和睦に文書で合意してしまっていたのです(『毛利家文書』)。石田三成=安国寺恵瓊の陣営に影響されていた輝元を最終的に家康側に呼び戻したのが、毛利の分家筋にあたる吉川広家だったこともあり、和睦の条件として、輝元だけでなく、吉川広家たち関係者のことも「粗略にしない」と家康に約束させたことが注目されます。