家康が大坂を出発した直後、増田長盛らの要請を受けた輝元は、広島から猛スピードで大坂にやってきて、家康不在の大坂城・西の丸を占拠してしまいます。名目は「警護」でしたが(『義演准后日記』)、周到に準備された末のクーデターであったことに変わりありませんでした。これにより家康は、前方に控える会津の上杉勢だけでなく、背後を大坂の輝元・三成に取られ、前後を敵に挟まれるという大ピンチになってしまったのです。

 この挟み撃ちについては、三成と交友があったとされる(上杉景勝の腹心の部下の)直江兼続が共謀した計画だとする創作物もあるのですが、史実性は低いです。また、家康が会津・上杉家討伐に踏み切ったのは、直江兼続が家康を真正面から批判し、戦も辞さないという構えであることを綴った書状、通称「直江状」を書き送ってきたからともいわれますが、現存する直江状には当時の言葉遣いではないと思われる部分が含まれており、少なくとも実物かどうかという点で議論があります。上杉謙信も名前だけの登場に終わりましたし、やはり『どうする家康』では上杉家関係はあまり深くは踏み込んで描かれることなく終わりそうな気がしますね。

 三成たちが結成した西軍は、毛利輝元が総大将を務め、それを宇喜多秀家、増田長盛といった人々が支える形でした(ちなみに関ヶ原の戦いにおける「西軍」「東軍」という有名な呼称に史実性はありません)。三成はというと、奉行職を辞任、佐和山城で隠居という身の上だったこともあり、役職上は西軍における代表的地位にあったわけではないのですが、しかし彼こそが西軍の中心であり、家康の関西における居城だと秀吉が定めた伏見城の攻撃も、三成が決定しています。

 伏見城は当時、鳥居元忠が2000にも満たない兵で守っていたのですが、4万もの西軍に取り囲まれても元忠は降伏を拒絶し、7月19日の開戦から半月たってもなお、落城を食い止めていました。