本多重次は、「鬼の作左(さくざ)」の異名でも知られる勇猛果敢な武将で、主君である家康にも堂々と意見したことでも知られる人物です。「徳川四天王」の一人である本多忠勝と同族の出身で、忠勝とは5代くらい前に分岐した家に生まれました。『どうする家康』では、本多一族からもう一人、本多正信が家康に仕えていますから、重次まで登場すると、家康周辺は本多家だらけになってしまうので、脚本の古沢良太先生は登場させなかったのかもしれません。ドラマの石川数正はなんでもズバズバと進言するキャラということもあり、そこに重次の要素が取り入れられたことで、重次が不登場に終わったのでしょう。重次と数正はほぼ同年代で、いろいろとキャラ被りが多いのです。また、重次には歴戦の勇者として戦った結果、片目、片足、手指の一部を失ってしまったという説まであって、映像化するのが難しいという面もあったのかもしれませんね。

 史実の本多重次は、岡崎城代を務めていた石川数正が秀吉のもとに出奔する事件が起こると、すぐさま大坂の豊臣家で人質になっていた我が子・仙千代に帰還命令を出し、自分の手元に取り戻しました。この重次の行動は、秀吉との再戦争をも辞さない構えであった家康から大いに評価され、岡崎城代の座を重次に継がせています。

 その後、豊臣家から大政所が送られてくることになると、重次は大政所の警備を任されていますが、警備役とは名ばかりで、大政所の居館の周りに薪を積み上げ、いつでも焼き殺せる準備を整えていたという逸話もあります。

 さすがにこの逸話の真偽には疑問符がつきますが、秀吉は重次を問題視していたとの見方があります。天正18年(1590年)の家康の関東入国後、重次は現在の茨城県取手市の井野に3000石の知行地(所領)を与えられて隠居しましたが、この背景には秀吉の強い意志があり、家康がそれに従わざるを得なかったからという説があるのです。ただ、この時の重次は数え年で62歳になっていましたから、当時としてはかなりの高齢にあたり、よい引退時期だったのではないか……とも思われますね。