30年前の発展途上国
本作は当然ながら、金持ちセレブの生活を露悪的に描くことを目的とした作品ではない(そもそも彼女は作品内で金持ち扱いされていない)。彼女の生活は平均的水準ではないかもしれないが、少なくとも制作陣は、観客がバーナデットに抱く共感を邪魔するような設定にしたつもりはなかったはずだ。
にもかかわらず市井の日本人が「贅沢な悩み」と感じてしまうのは、ひとえに日本が――他国と比べて相対的に――貧しくなったからではないか。
我々日本人は、30年前には特に苦もなく達成していた生活レベルを今では簡単に達成することができない。この30年で平均年収と退職金と普通預金金利は下がり、物価と税金と社会保険料は上がった。現代日本の経済停滞、「失われた30年」だ。「一家に2人」がデフォルトだった子供は、今や「贅沢品」扱いになった。
こんなことを想像してみる。30年前、日本で放送されたトレンディドラマを当時の発展途上国の人たちに見せていたら、一体どんな反応が返ってきただろうか。
おそらく、こんな感じではないか。
「仕事に困らず、清潔な住まいと寝床があり、1日3食問題なく食べられて、何不自由ない生活をしているのに、恋愛と友情の板挟みで心が苦しい? とても…贅沢な悩みですね」
現在、日本を訪れる海外からの観光客が増えている。理由は「日本は何をするにも、何を食べるにも安いから」だ。筆者はちょうど30年ほど前、バックパックで発展途上国を長期貧乏旅行していた大学の同級生から、まったく同じ言葉を聞いたことがある。「あっちのほうの国って、何をするにも、何を食べるにも安いんだよね」
今や日本は、海外からの観光客にとって「あっちのほうの国」なのだ。バーナデットの悩みが贅沢すぎると感じて当然である。
高度な自己実現に悩む余裕すらないのが、今の日本だ。多くの日本人はそんなことより、パック刺し身を思う存分食べられる生活をしたい。筆者もだ。
『バーナデット ママは行方不明』
監督・脚本:リチャード・リンクレイター
脚本:ホリー・ジェント、ヴィンス・パルモ
出演:ケイト・ブランシェット、ビリー・クラダップ、エマ・ネルソン、クリステン・ウィグ
配給:ロングライド
提供:バップ、ロングライド
2023年9月22日公開
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