「贅沢な悩み」

 映画前半では、バーナデットが深刻なアイデンティティ・クライシスに苦しんでいることが描かれる。偉大なる芸術的才能をもち、自分でもそれを自覚しながら、結婚・出産で建築界から離れて以来20年間もそれが発揮されない場所にいなければならなかった地獄は、察するに余りある。

 しかし同時に、バーナデットやエルジーの生活ぶりを眺めていると別の感情も湧き上がってくる。「持てる者は持ち続け、豊かな者は豊かであり続ける」という絶望的な真実だ。映画で描かれるバーナデットやエルジー、あるいは周囲のママ友たちの暮らしからは、彼女たちがその生活から経済的あるいは文化的に“転落”する可能性がまったく想像できないし、本人たちもそんなことは露ほども考えていない(ように見える)。
 
 彼らは2023年現在の日本の庶民のように、見切り品を探して自転車を漕いでスーパーをハシゴしたりしない。パック刺し身が高くて普段の食卓にはとても並べられないと嘆いたりしない。勤務先近くの昼食代が1000円を越えることに心を痛めたりはしない。ランドセルの値段に頭を悩ませたりはしない。子の塾代のために父親の小遣いが3万円から2万円に減らされたりはしない。家族4人が年に1度、1泊2日でディズニーランドへ行くために、1年間血の滲むような節約生活を強いられたりはしない。ファミレスでの家族外食を「たまの贅沢」と呼んだりはしない。

 繰り返すが、バーナデットなりの地獄は痛いほど伝わってくる。しかしバーナデットや街の住人たちの日々の暮らしぶりは、あまりにも……我々とかけ離れている。こんな野暮なことを言うべきではないと頭では分かっていても、つい口にしてしまう。

「贅沢な悩みだね」