境遇に格差がありすぎる

 その上質な生活環境が、バーナデットやエルジーの才能と努力によって獲得されたものであるのは間違いない。彼らはズルなどしていない。才能、あるいは「努力できる才能」というものが生まれついての幸運なのだとしても、彼らが責められる筋合いはない。

 エルジーは会社方針に納得がいかないからと、高給をなげうって会社を辞める。誇り高い。実にクールだ。人間こうありたいものである。しかしそれができるのは、現在の生活が経済的に困っていないからだ。何より、自分ほどの能力があれば職などいくらでも見つかると、エルジーが確信しているからだ。

 能力のある者が自分に能力があることを確信している。それはバーナデットも同じ。自信を失ったり卑屈になったりなどしない。問題は単に、その高い能力をうまく活かせていないということ、ただそれだけ。

 彼女はラストで、常人には絶対に縁がないであろう特殊な仕事を手掛けることで、自らの価値を再確認する。しかし、能力者が能力者にしかできない解決方法で困難を克服するさまを見せられても、そこにはなんの再現性もない。虚構たる物語に再現性など必要ないと言われるかもしれないが、観客が主人公の気持ちに寄り添うタイプの物語である以上、再現性は共感の原動力となりうる。

 我々の多くはバーナデットほど経済的に何の心配もない生活を送れてはいないし、バーナデットほど才能や能力に恵まれてもいない(芸術的にも、文化的にも、知的にも)。バーナデットの内面の問題だけを抽出して我がごととして捉えることはできても、境遇があまりに違いすぎるために、どこかで何かが冷めてしまう。

 食うや食わずの生活に負われる年収200万円のシングルマザーは、共働き・世帯収入4000万円の妻がキャリアアップに悩んでいることを「理解」はできても、気持ちに寄り添うには限界があるだろう。市井の日本人からすれば、バーナデットのアイデンティティ問題は――彼女にとっては心外だろうが――住む世界が違う人の「贅沢な悩み」に、どうしても見えてしまう。