五節の舞姫とは別ですが、花山天皇も即位儀式の直前まで女官と性行為をしていたという逸話もあるので、重要な儀式と性が結びついていた可能性も否定できないのですが、天皇のあらたなお妃候補(もしくは側室候補)を、選出するためのオーディションだったのではないか、と筆者には思われます。天皇は2日後の新嘗会の神事に向けて潔斎しているはず、ということもあります。

「帳台の試み」のあった翌日、つまり寅の日には「御前の試み」が行われ、舞姫たちは天皇の昼の御座所がある清涼殿・廂の間で舞を披露しました。さらに3日目の卯の日には、天皇にとっては年中最大の重要行事のひとつである新嘗会があり、舞姫たちには、自分の付き人の少女たちを天皇にお見せする「童女御覧」という儀式がありました。これは明日に控えた本番のための最終リハであったと同時に、そこで自分の付き人まで天皇の御覧に入れるのは、舞姫同様、童女まで美しく飾り立てることができているかなど、舞姫を差し出した貴族たちの経済力や美意識をテストする目的があったと考えられます。

 4日目の辰の日の「豊明節会(とよあかりのせちえ)」は、舞姫たちにとっては最大の見せ場で、舞の本番です。ここで舞を美しく披露し、ようやく舞い納めということになるのですが、この長丁場の行事はドラマではかなり省略されてしまうでしょう。

 紫式部は『紫式部日記』において、ある年の五節の舞姫の行事に、観客として参加した印象を書き留めていますが、舞姫だけでなく、それを見ている自分もさまざまな男性の視線を浴びていると思うと、ドキドキするなどと言っています。当時の女性にとって、顔はおろか、姿をあらわにすることは気恥ずかしいことだったのですね。ドラマのように実際に舞を披露する側に回るとなると、史実の紫式部ならば卒倒してしまいそうな気がしている筆者でした。

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