しかし、家康自身は、秀吉への忠義に殉じたといえる石田三成を嫌いにはなれなかったようですね。三成は処刑されましたが、その子孫に対し、家康そして幕府の対応が比較的寛容だったことは要注目でしょう。

 三成が正室(氏名不詳)との間に授かった三男三女たちは、関ヶ原の戦い以降も殺されずに生き残り、江戸時代になると、さまざまな藩で重役として取り立てられることもありました。また、三成の娘の辰姫が生んだ男子が、弘前藩3代藩主・津軽信義となったことも興味深いですね。これは「戦犯」石田三成の孫が、4万7000石の津軽家を大名となって継ぐことを、幕府が公認したということですから。

 関ヶ原の戦いでやはり家康に反旗を翻した結果、八丈島に島流しになった宇喜多秀家の子孫たちは、明治時代になるまで赦免されることはなく、島で暮らし続けねばならなかったのとは対照的です。こうした扱いの差から見ても、家康と三成の間に「友情」があったかまではともかく、少なくとも家康の三成に対する感情はそれほど悪いものではなかった気がします。『どうする家康』がどのような解釈で彼らの関係を描くのか、楽しみですね。

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