2回目の三成と家康の衝突は、いうまでもなく関ヶ原の戦いです。これはドラマでも詳しく描かれるでしょうから、ここでは触れません。いずれにせよ、ドラマの家康と三成に友情が芽生えるというのであれば、家康が瀬名姫(築山殿)とは熱愛関係であったという設定同様に、『どうする家康』特有のチャレンジングな、ドラマオリジナルの人間関係が楽しめるかもしれませんね。
それでは、家康と三成の関係は史実においてどのようなものだったと考えられているのでしょうか。歴史学者・光成準治氏によると、「家康と三成は極めて没交渉」で、それは秀吉が「意識的に家康から遠い位置に三成を置いた」がゆえだと推論しています。光成氏の仮説によると、秀吉が三成を家康から遠い位置に配したのは、秀吉はその才能を高く評価していた三成を、自分が死んだ後の反・家康勢力の中心に据えようと構想していたからだそうです(「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」/渡邊大門編『家康伝説の嘘』柏書房より)。しかし、三成の人望の無さ、そして秀吉子飼いの武将たちとの折り合いの悪さに秀吉が気づかないはずもなく、本当に秀吉が三成を家康の対抗馬になりうるとまで評価していたかは筆者には疑問です。
関ヶ原の戦いの前年に「三成襲撃事件」が起こったという話は先ほど触れましたが、この事件に関しては、加藤清正や福島正則ら七将の手で殺されそうになった三成が家康の館に逃げ込み、匿ってもらったという説があります。大河ドラマでも頻出のエピソードですが、『どうする家康』の家康と三成が親しくなるのであれば、この逸話も映像化するつもりでしょう。しかし残念ながら、家康が三成を匿ったという逸話どころか、この襲撃事件自体、後世のフィクションである可能性が高いと思われます。
歴史学者・白峰旬氏は、先行研究と史料の整合性を図ることで、三成襲撃事件は「根拠のない虚構」であって、加藤清正、福島正則、黒田長政といった「秀吉子飼い」の七将による「武力による『襲撃事件』ではなく、『訴訟運動』」だったと結論づけています(『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社)。