秀吉晩年の愚行として知られる「朝鮮出兵」において、三成が七将の働きぶりを秀吉に報告したのですが、この時、三成が各人を過小評価して伝えたのではないかという疑惑があり、秀吉の死後、不満を持っていた七将が三成を糾弾しようとしたというのです。この時、七将の肩を持った家康が介入し、三成を奉行職から追放、佐和山城に蟄居させています。これが何らかの理由で、武力による襲撃事件が起こったという形で後世に伝わった……ということですね。

 ちなみに家康は、三成を訴えた七将に「三成の息子を人質にとってやったぞ」と勝ち誇ったような調子の手紙を書いたのですが、実はその裏で自分の息子を人質として三成のいる佐和山城に送っていたことが判明しています(『多聞院日記』)。つまり、家康は七将と三成の双方に「良い顔」をして見せたのです。まさに「タヌキおやじ」というイメージそのものの行動ですね。

 この三成襲撃事件もしくは三成訴訟事件について詳細は不明な部分も多いのですが、はっきりしているのは、関ヶ原の戦いの直前の段階で、豊臣政権内部において三成に敵対する人物がかなり多かったということですね。三成を「攻撃」した七将は、関ヶ原の戦いにおいて、豊臣側ではなく徳川側につくことになります。そして、関ヶ原の戦いに敗れた三成は捕縛され、京都・六条河原で処刑されてしまいました。