結局、このように自己主張が強すぎる「秀吉子飼い」の人々が豊臣政権で幅を利かせていたため、三成などは彼らの輪の中には入れてもらえず、まともに交流することもできないという状況が続きました。彼らとの関係は、秀吉の存命中はまだマシだったのですが、秀吉が亡くなると不和が深刻化します。秀吉の死後に、秀吉子飼いの武将たちのうち、加藤清正や福島正則ら「七将」(七本槍とは少し面子が異なる)による「三成襲撃事件」が起きました。これが関ヶ原の戦いの前年ですから、このように敵の多い三成が家康に勝てる見込みはこの頃からすでにほとんどなかったことも透けて見えるような事件ですね。

 しかし、改めて史実の三成の交友関係を考えると、そこに家康は含まれていなかったと考えたほうがよいと思われます。読者もよくご存知のように、三成はその生涯に少なくとも二度、家康と正面衝突しているからです。

 最初の衝突は、秀吉の死後すぐの時期に起きました。事の発端は、秀吉が定めた大名同士の私婚禁止令――つまり、自分都合での政略結婚を進めてはいけないという決まり事を家康が率先して破り始めたことでした。三成はこれを咎め、「四大老」の筆頭格である家康を弾劾しようと動きます。毛利輝元、前田利家など三人の大老たち、自分以外の三人の奉行たちの同意を三成は得ますが、すでに家康に接近を見せていた藤堂高虎が弾劾決行の前夜、家康に情報をリークしてしまったことをきっかけに反・家康派はまたたく間に家康側にとりこまれ、三成が意図した豊臣政権からの家康の追い出しは叶いませんでした。

 三成に賛同していたはずの前田利家が手のひら返しのような裏切りを見せたのも、三成にとっては痛かったでしょう。重病だった利家は、自分は先が長くないと感じ、「嫡男・利長のことをよろしく頼む」という一点と引き換えに家康と勝手に和解してしまったので、三成の家康弾劾計画は完全に腰砕けになってしまいました。利家は利家で、三成には秀吉亡き後の豊臣家を引っ張っていけるだけの素質がないと気づき、見限ったのかもしれませんが……。