そんな三成が『どうする家康』ではどのように描かれるのか興味深いところですが、ドラマ公式サイトの三成のプロフィールには〈家康もその才能に惚れこむ〉とあり、少々驚きました。予告映像では、三成は家康と星を見上げ(?)「気が合いそうでござるなあ」と話しかけていましたね。本当に2人は気が合った……のでしょうか? 歴史的創作物において、家康と(一時的にせよ)意気投合する三成など、ほとんど見た記憶がありません。それほど三成と家康は水と油、犬猿の仲として描かれることが多かったわけですが、それでは史実ではどういう関係だったのでしょうか。今回は石田三成の実像について、少しお話ししようと思います。

 三成はいわゆる「戦国武将」にカテゴライズされていますが、一般的な彼のイメージは、豊臣政権における有能な官僚、つまり「槍働き」をしない文官として出世を重ねたというものだと思います。

 しかし、本当のところは三成にまったく「槍働き」、つまり武勲がなかったわけではありません。『どうする家康』では映像化されませんでしたが、秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いにおいては、大谷吉継、一柳直盛、石川貞友(のちの石川一光)などと共に「先駆衆」の一員として三成は大活躍し、雑兵の首を取っては腰にぶら下げていったところ、「重くて動けなくなるから、兜首(=身分の高い武将の首)以外は置いていけ」と吉継からアドバイスを受けたほどでした。

 この時「先駆衆」と共に戦っていたのが、後に「賤ヶ岳の七本槍」として有名になる加藤清正・福島正則たちの一団です。本来であれば、三成たち「先駆衆」の4人も加えて、「十一本槍」などというべきだったのかもしれませんが、清正、正則らは秀吉と血縁的にも立場的にも近く、そのことを誇りにしている彼ら「秀吉子飼い」の武士たちにとって、ポッと出の「外様(とざま)」に過ぎない三成たちと同列に扱われることは心外だったのでしょう。そもそも、福島正則は七本槍では最年長の脇坂安治でさえ軽蔑していることを隠そうともせず、「脇坂などと同列にされるのは迷惑」と発言していたり、加藤清正は七本槍と一括りにされること自体に拒否反応を示すなど、七本槍の7人の中でも秀吉との距離が特に近い者はそれ以外の者と同列に扱われたくないという考えがあったほどです。