ドラマの家康は「聖人君子」のような空気をまといはじめ、欲望の塊のような秀吉とは対象的な存在になっていますが、史実の家康はこの時期でもまだかなり血の気が多く、それに比べて(表向きだけでも)温和な秀吉の人柄を直接知っている数正は、家康が秀吉を凌ぐ天下人になれるとはとても思えなくなってしまったのかもしれませんね。
ともあれ、数正の出奔は家康に大きな痛手を与えました。第32回では、徳川軍に手痛い敗北を食らった秀吉が「信長様のせいだわ。徳川をさんざんこき使って、とんでもねえ軍勢を育ててしまった」と徳川軍の強さの理由を語っていましたが、史実では数正こそが徳川家の軍政改革の当事者だったので、そんな彼が秀吉の味方になることは、徳川の重要な軍事情報がすべて筒抜けになることを意味していたからです。一説に、この出奔事件を受けて、武田家の遺臣たちから引き継いだ武田流の軍法を徳川家の主流にするという刷新が行われたそうです。
豊臣の臣下となった後の石川数正は、秀吉から一文字いただき、名を吉輝と改めました。そして、河内国に8万石を与えられたそうです。後には信州・松本の地に10万石(8万との説も)を与えられ、現在にもその姿を留める松本城の建造を開始しています。ケチな家康に比べ、秀吉は家臣たちに気前よく領地や褒賞を与えることで有名だったので、出奔後の数正は豊かで幸福な生活を送ったようですね。数正は自分が見限った家康が天下人となる姿を見ることなく、文禄2年(1593年)に亡くなったとされていますが、その際の詳細はよくわかりません。10万石の大名の死について、定説がないのは不思議な気がしますが……。『どうする家康』が数正の「裏切り」をどのように描き、その後の人生をどのように伝えるのか(あるいは伝えないのか)、楽しみにしましょう。
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