昌幸は、秀吉の謎めいた言葉の意味をなんとなくは理解できたようですが、具体的に何が起こるのかはわからなかったようですね。結果的に、数正の出奔が家康を動揺させ、真田の上田城を取り囲んでいた徳川軍は一斉に退却してしまったのですが、これに驚いた昌幸は、徳川を共に迎え撃つ約束をしていた上杉家の直江兼続に「なぜ徳川軍が引き返していったのかは、まったくわかりません(要訳)」という手紙を送っています。
石川数正の出奔は、秀吉から数正と共に逃げてこいという命令を受けた小笠原貞慶によってもたらされた……筆者はそういうストーリーを思い描いています。家康がちょうど強敵・真田昌幸との戦いに気を取られているタイミングだからこそ可能な調略だと秀吉は判断したのかもしれません。
筆者の考えはこうです。10月28日の浜松城での会議で「秀吉の要望どおり人質を送り、豊臣家と早急に融和すべき」という案を出した数正は、秀吉の内通者だと疑われ、家康や他の家臣たちとの関係が急激に悪化。そこに、徳川家に臣従したばかりで、数正が「教育」を担当していた小笠原貞慶が、(秀吉から吹き込まれたとおりに)「私はやはり徳川を裏切る」などと言い出したことで――あるいは、一説に貞慶が秀吉と内通していることが発覚して――「貞慶の離反を防げなかった自分は連帯責任を問われるだろう」と感じた数正は、やむなく秀吉のもとに行くしかなかったのではないでしょうか。そしてそれはすべて、徳川家を切り崩すために秀吉が仕組んだことだったというわけです。
ドラマの数正は、第32回冒頭の軍議で「敵はあれだけの兵に食わせるたけでもひと苦労。長引けば秀吉に焦りも出ましょう。さすれば我らに有利なる和議を結ぶことも」と、早いうちから停戦に向けての「落としどころ」を探ろうとしており、若手の家臣団から「弱気」と責められていましたね。ラストシーンでは、数正は家康に対し「秀吉には勝てぬと存じまする」とはっきり断言までしていました。おそらく、このような言動が史実の数正にもあったのでしょう。