あらすじにはさらに、真田昌幸(佐藤浩市さん)の裏に「秀吉の影」があると書かれており、予告映像には「秀吉、家康……乱世を泳ぐは愉快なものよ」と言っている昌幸の姿もありましたが、この時期、史実の昌幸は交流のなかった秀吉に突然、手紙を書いて保護を願い出ています。秀吉も、自分に敵対姿勢を崩さないままの家康を取り込むための「コマ」として昌幸を使えると思ったらしく、真田家との連携を同年10月、書面で約束しました。
秀吉による「切り崩し」はこれだけに留まりません。小牧・長久手の戦いが織田信雄と秀吉の講和によって収束に向かう際、家康と秀吉との間を取り持ち、両者の間を外交官のように往復してくれていた石川数正まで、秀吉の家康攻略の「コマ」として利用されることになり、数正は家康を裏切って去ったのでした。これこそ家康にとって、もっとも手痛い「裏切り」だったでしょう。
家康の長年の重臣だった石川数正が出奔したのは、天正13年11月13日のことでした。数正が秀吉のもとに行った理由は史料上、はっきりしていませんが、研究者の間では、数正出奔の約2週間前にあたる10月28日に浜松城で行われた会議が決定的となったとする仮説があります。秀吉は和議の条件として徳川家から人質を出すよう要求しており、この会議では人質を差し出すべきか否かについての議論が行われました。「おそらく石川数正は人質を秀吉に出すべきとの意見を持っていた」(藤井譲治『人物叢書 徳川家康』吉川弘文堂)のですが、しかし「秀吉には臣従しない」と主張する家康と、彼に同調した家臣の多くは人質拒絶派だったため、数正は孤立したという見立てです。数正はこの時すでに自身の子を秀吉に人質として差し出しており、このことも悪く働いて「石川(数正)殿は、秀吉の内通者ではないか!?」という声が家康の家臣団から上がったのかもしれません。
もっとも、この会議が行われた時点ですでに数正が家康たちを見限るつもりだったのではと考えることができそうな史料もあるようですよ。それは、同年10月17日の日付で秀吉が真田昌幸に送っていた手紙です。それまで特に交流がなかった昌幸が徳川家からの保護を依頼してきたのに対し、秀吉は次のように返信しています。