露呈する男女の非対称性

 劇中、ある人物は、人間が男社会やバービーを作るのは過酷な現実を乗り切るため、といった主旨のことを言う。「男社会」と「バービー(ワールド)」は、ここにおいて並列されている。裏を返せば、両方とも別々の意味で虚構的・逃避的なユートピアである、というわけだ。

 本作は単なる女性側からの感情的な文句を並べた映画ではない。男性優位社会にはもちろん、(虚構の)女性優位社会に対しても、きわめて公平に批判的視線が投げかけられている。

 ケンが敗北してバービーワールドが元通りになった後、バービーはケンに言う。「軽く扱ってごめん」と。一方のケンは、いつもバービーが主体で自分は添え物であり、独立的に存在できない自分の不甲斐なさを嘆く。そんなケンにバービーは、ケンとは何者なのかを見つける時なのではないかと言う。

 一見して、バービーが過去のケンに対する振る舞いを「改心」してケンが「真のTo Do」を発見したかのように見える、つまり一件落着に見えるが、もしこのシーンの配役が男女逆だったら印象は変わる。長年添え物扱いされアイデンティティを剥奪された女性が、男性から軽めに謝罪された後、「君が何者かを見つける時なのでは」と言われたら? 「お前が言うな」だ。

 ここには、男女逆転構図で問題の本質をあぶり出しながら、しかし男女の置かれた立場はいかんともしがたく非対称であるという現実が浮き彫りにされている。物語を単純なポジショントークや異議申し立てに矮小化しない。議論の帰着ではなく開始を告げる。見事な批評的手付きだ。