兵器としてではなく、あくまでエネルギー資源としての核保有を当時の米国政府は主張したわけだが、その一方で原子力に対する危険感は今の感覚からすると、あまりにもずさんだった。『ドラゴン・テール――核の安全神話とアメリカの大衆文化』(凱風社)などの著作がある、広島市立大学平和研究所教授のロバート・ジェイコブズ氏は、数多くの核実験が行われたネバダ核実験場を例にして、次のように解説する。
「実験場の周辺住民は、核実験に関する注意を確かに受けてはいました。問題は、その注意が正しくなかったことです。政府直属の原子力委員会からグリーン・ブックと呼ばれる小冊子が配られ、そこには“実験に使われる爆弾はほぼ無害”といったような言葉が並べられていました。アイゼンハワー大統領自身も“死の灰を96%排除したクリーンな爆弾の完成”を明言し、住民たちはこれをすっかり信用しました。その結果、雪のように積もった放射性降下物で遊ぶ子どもたちの写真などが残されています」
そのような状況であったため、50年代のネバダ核実験場近くの新興都市・ラスベガスでは、あるビジネスが流行した。それは、なんと核実験の観光資源化である。爆心地から数キロ圏内でサングラスをかけながら爆発を観測、キノコ雲をバックにして自撮りするのが定番だった。
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