ポップなアイコンとしてキノコ雲がシンボルに

「原爆投下は戦争終結を早めた。日本で本土決戦をしていたら100万人の米国兵が死傷しただろうが、それを防ぐことができた」――これは第二次大戦中に米国の陸軍長官を務めたヘンリー・スティムソンの言葉だが、この認識は現代もなお、米国で広く共有されているという。とはいえ、原爆の威力はすでに実験で明らかになっていたはずだ。使用や保持に関して慎重論は出なかったのだろうか?

「当時から原爆投下の道義的責任を問う声は米国内部からも出ていましたが、冷戦が始まったばかりである状況を考慮すると、(核兵器の所持は)他国に対しては『これだけ強力な兵器を持っている』という脅威として使われました。ソ連の原爆保有後は、その傾向が強まります。また、国内に対しては『これだけ持っているから敵は攻めてこない』という安心の象徴として印象づける必要がありました」(山本氏)

このような核戦略があったため、以後、1940年代から50年代にかけて米ソの核開発競争が激化していく。来るべき核戦争に備えるため、米国では民間防衛動員局の主導で核攻撃から生き延びるための教育が行われたり、民間人向けの核シェルターが売り出されていた。

そんな中、1953年1月に大統領に就任したドワイト・D・アイゼンハワーは、同年12月に国連で歴史的な「平和のための原子力(Atoms for Peace)演説」を行い、核兵器の削減や原子力の平和利用を訴えた。この演説は、後のIAEA(国際原子力機関)発足につながっている。