当時のラスベガスはマフィアが次々と進出し、「カジノの街」が形成されていった時代。核実験の不安を取り除きたい政府とも思惑が合致し、やりたい放題だったのだ。ほかにも「アトミック・カクテル」といった飲み物や、「ミス原爆」といった、美女コンテストまで催されていた。
なお、「原子力の平和利用」の波は、原爆攻撃を受けて日の浅い日本でもスムーズに受け入れられていったが、これはGHQの意向が強く動いたという。
「検閲により、占領軍(実質は米国)に対して、ネガティブに作用しかねない報道は不可能でした。原爆被害についても同じです。当時は後遺症に苦しむ被ばく者の姿はほとんど報道されませんでした。しかし、その一方でポジティブなものであれば報道可能で、例えば、広島で巨大カボチャが採れて『これは原爆の影響か』と書かれた記事を見たことがあります。というのも、当時は検閲により、原爆は他の戦災と変わらないかのように扱われていたからです。その結果、核はただ“巨大なエネルギー”や“無尽蔵のエネルギー”として、多くの人々に認識されたと考えられます。台風にぶつけて進路を逸らすとか、月ロケットの動力とか、土木工事に使えるかも……など、さまざまな夢が語られていました」(山本氏)
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