ただ、本能寺を常宿と定めたにもかかわらず、信長がほとんど宿泊しなかったことには理由があるようです。在京中のイエズス会宣教師による「耶蘇会士日本通信」によると、本能寺側は(こちらも信長の宿泊希望先とされた)本圀寺同様に信長の逗留を嫌がっていたようで、宿泊させない「運動」をしていたといいます。

 なぜ信長がそこまで拒否されたかというと、彼が要求過多なモンスターカスタマーだったからです。信長が本能寺側に押し付けた「本能寺文書」の第一条には、要約すると「信長一行が常宿としている間は、余人の寄宿を停止すること」という文章があり、「余人の寄宿停止」という部分からは、僧侶など寺の関係者までが、信長宿泊時には本能寺の建物内に居ることを禁じたことがうかがえます。つまり、信長の滞在中は寺の者たちはみな他の寺に宿泊しておけ、ということで、本能寺のような多くの僧侶を抱えた寺にとってはかなり難儀な要求だったはずです。

 当時の本能寺の貫主(かんしゅ、寺のトップ)は、伏見宮家出身の日承という人物で、皇室に対しては崇敬の念が深い信長とは良好な交友関係にあったといいますが、それでも本能寺を信長一行の宿泊地とされることだけは拒絶したかったようです。信長と親しかったがゆえに、何らかの理由をつけて宿泊を拒否することができたのかもしれません。文亀元年(1501年)生まれの日承はすでに60代を超えており、戦国時代の感覚ではかなりの高齢者です。それゆえ、「信長さまのご宿泊中に他の寺に移るのはこの老いの身には一大事でして……」などとうまく断わることができたのかもしれませんね。

 日承が亡くなった翌年、つまり天正8年(1580年)、信長は京都所司代の村井貞勝に命じて本能寺の改造を開始しました。この当時の本能寺は敷地が正方形で、その四辺はそれぞれ120メートルもあって、当時の言葉で「一町」ぶんもの広さがすでにありました。信長はそこに、幅2~4メートル、深さ1メートルの堀をめぐらせた上に80センチの石垣の土台を設け、その上に3~5メートルの土塀をめぐらせるという城塞化のような工事を行わせ、天正10年6月の本能寺の変の時点でほぼ完成していたそうです。