ところで、信長最期の地となった京都・本能寺とはどんな建物だったのでしょうか? 最近では「本能寺は京都における信長の定宿ではなかった」という説にも注目が集まっているようなので、今回は本能寺について検証を行ってみたいと思います。

 信長が本能寺に泊まった回数は確かに、我々が「常宿」という言葉から想像するよりかなり少ないのは事実です。信長の宿泊回数を計算した上で「本能寺は信長の定宿ではなかった」という説を唱えておられる歴史研究家の井上慶雪氏によると、「信長の約49回の上洛中、天正年間の『本能寺泊』はたったの2回である(厳密には上洛当初の元亀元年〈1570〉7月と8月の2回もあるが、これらを加えても4回にすぎない)」(2020年12月30日付「東洋経済オンライン」より)とのことです。

 一方で信長は、元亀元年(1570年)8月に本能寺に宿泊した際に気に入ってしまったのでしょうか、同年12月にはいわゆる「本能寺文書」を寺側に押し付け、本能寺を自分の京都の常宿にすると寺に宣言しています。つまり信長が本能寺を「常宿」にしたのは歴史的事実であって、間違いではないのですね。

 しかし井上氏の指摘どおり、信長は結局なぜか本能寺に宿泊することはほとんどありませんでした。井上氏の調査によると、信長が上洛した際の宿泊地は妙覚寺泊が最も多くて約20回、二条御新造(二条御所)泊が14回、相国寺泊が6回などなど。井上氏はまた、本能寺の変の際に信長が本能寺に泊まったのは、妙覚寺に嫡男・信忠が滞在していたからでは、とも指摘しています。