寺の敷地内には、さらに塀で囲まれた宿泊用の「御成(おなり)御殿」を造らせており、信長が本能寺に泊まった2回(天正9年2月と、本能寺の変の際)は、この区画に信長一行が泊まっていたと考えられています。
しかし、御殿自体はそれほど大きい建物ではありませんでした。信長が100人程度のお供しか連れていなかったのは、ドラマのように「オレを殺せるものなら殺してみろ」と煽った意味はもちろんなく、ただ単純に施設の収容キャパシティの問題だったのでしょう。この時の信長のお供の数に定説はなく、少ないもので御小姓などの近習が数十人と、その他わずかの召使いたちだけがいたとする説がありますが、多くても御馬廻衆など入れて170人ほどだったとされているので、かなりの少人数だったことがわかります。
「御殿」という名の建物が建設されているからには、そこにメイドに相当する女房たちも常駐していておかしくはないので、信長は上述のような少人数のお供を連れていれば十分ということだったのでしょう。こうした少人数での本能寺での宿泊は信長が油断していたから……とする説はよく目にしますが、御殿のキャパシティを考慮していないがゆえに生じる読み違いであろうと思われます。
ところで信長は、長らく本能寺の宿泊が受け入れられなかったペナルティとして「寺の坊さんたちにはずっと出ていってもらう」という厳しい条件を突きつけており、もともといた僧侶たちは、信長の滞在していない時ですら追い出されることになったそうです。数ある本能寺の変の記録において僧侶たちがほとんど登場しないのは、信長のこの命令によるものなのです。
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