『信長公記』における信長の最期は、信長が本能寺にいた「女ども」……つまり女房たちに事態を聞いて、寝ていた御殿から寺の本堂あたりまでわざわざ出向き、弓矢をとって明智勢と闘ったあげく「是非に及ばず」といって自害したというふうに描かれているわけですが、信長が最期にド派手な大立ち回りをしたとするこの記述のどこまでが真実であるかはわかりません。
信長の旧臣で『信長公記』の著者である太田牛一はいわば信長の「大ファン」ですから、本能寺の変の際に自身が京都に居合わせていなかったからといって、敬愛する信長の最期について適当な創作でごまかすような真似をするものかな、という疑問は筆者には残ります。
もちろん、太田が『信長公記』に書き記したことすべてが真実とは考えにくいのは確かです。
【こちらの記事も読まれています】