どうやって築山殿と信康が武田家と内通している証拠を家康は掴むことができたかについては、ドラマ同様に、五徳姫の存在が大きかったようです。実際、築山殿と信康が武田家に内通している旨を記した五徳姫の告発状が彼女の父・信長に送られたことが知られていますが、驚いた信長が家康に説明を求めたのが天正7年(1579年)の6月~7月あたりだったのではないかと推測されます。そして信長側との入念な協議の結果、ついに家康は8月4日に信康の身柄を拘束し、岡崎城から追い出した上、幽閉するという行動に出ました。
興味深いことに、家康本人がこの事件について、信長側近・堀秀政に語った書状が残されています。原文は以下のとおり。
「今度左衛門尉(=酒井忠次)を以て申し上げ候処、種々御懇ろの儀、其の段取り成し故に候、忝(かたじけな)くこころえ存じ候、よって三郎(=信康)不覚悟に付いて、去る四日に岡崎を追い出し申し候」
原文に省略が多く、解釈にも諸説あるでしょうが、「信長さまのところには当家の酒井忠次を派遣し、徳川家中についてあれこれと説明申し上げたが、それについては私(家康)が、五徳姫と愚息・信康との離縁などについていろいろと取り計らったからだ。面目ないものの姫からの承諾を得られたので、愚息を岡崎城から追放することができた」と意訳できるでしょうか。
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