いずれにせよ、『どうする家康』の築山殿=瀬名は政治にどんどん関わっていくことになりそうです。次回・第24回のあらすじには、〈瀬名と信康が各地に密書を送り、武田方をはじめ多くの者が築山を訪ねている〉という箇所があります。

 これについて史料的な裏付けとなるのは、江戸時代初期に成立した『石川正西見聞集』の次の一節です。

 「つき山殿(=築山殿)悪戯な事たくみ、信玄と御内通有りて家康公滅ぼし候え、其の後は勝頼の御連中になし申し、若殿(=松平信康)をば甲州の主になし御申し有るべしと信玄御申し、その取次は御中間弥太郎(=大岡弥四郎)とやらん申す者なり、右の様子(家康に)漏れ聞こえ、信長公へ御内談の上、若殿様をば岡崎を出し御申し(以下略)」

 この部分に言葉を補いつつ、まずは前半部分を意訳してみましょう。