「築山殿は、武田家との戦を続ける夫・家康を滅ぼしたいと願い、晩年の武田信玄、そして彼の死後には勝頼と内通していた。築山殿は、『わが夫・家康を武田家の力で滅ぼしていただいた暁には、わが身を勝頼殿の妻にし、家康との間に生まれた信康に武田家の跡目を継がせてほしい』などと言っていた」
このような築山殿の願いは絶対に叶えられなかったでしょう。勝頼には男子が何人もおり、彼らを差し置いて松平信康が「甲州の主」になることは無理だったと思われます。『石川正西見聞集』は家康に好意的な書物ですから、女だてらに政治介入した築山殿をバカにするため、理屈の通らないことを本気で主張していたと、故意にこのような書き方になっているのかもしれません。実際の築山殿の希望は、もっと現実を見据えたもので、「信康には三河や岡崎といった現・徳川領の支配を任せ、勝頼が彼の後ろ盾になってほしい」あたりではなかったかと筆者には推測されます。
『石川正西見聞集』の先ほどの一節で注目されるのは、「築山殿と武田の間を取り次いだのが大岡弥四郎という人物で、こうした状況が家康にも知れ渡り、家康は信長に相談したうえで信康を岡崎城から追放した」という後半部分です。ドラマでも第20回の「岡崎クーデター」に登場した大岡弥四郎が、この史料では築山殿と武田信玄を仲介する存在として彼女の計画の後押しをしていた可能性が言及されているわけです。同書の記述を信頼すると、天正2年(1574年)の大岡弥四郎事件の時点で、築山殿は徳川家の人間でありながら、親・武田、反・家康派の中心にいたと推測できます。ただ同書は、大岡弥四郎事件の直後に信康と築山殿の追放などの事件があったとしており、これらはいうまでもなく他の史料から読み取れる史実とは異なります。
この『石川正西見聞集』の内容と史実を整合させていくと、次のようなことがあったのではと考えられます。「武田家との内通が露見した際、大岡弥四郎は築山殿をかばい、全てを自分の所業として罪を被って死んでいったので、築山殿の命は首の皮一枚でつながった。しかし、それでも彼女の暗躍はとどまるところがなかった。大岡弥四郎が刑死した後の築山殿の政治活動を支えたのは、松平信康だった。家康は築山殿と信康の監視をいっそう強め、五徳姫という協力者を得て、ついに築山殿と信康らの謀反の証拠を掴み、両者を城から追い出して監禁し、その後改めて彼らの命を奪うことにした」といった経緯ですね。