奥平家は、かつては今川家の家臣でしたが、今川の没落後は武田家に乗り換えています。しかしすぐに武田家の支配から離脱し、徳川の家臣になったかと思うと、やはり徳川を見限って武田に戻り……といった不穏な動きを続けていました。三方ヶ原の戦いでは、奥平信昌は武田方として参戦しており、徳川軍と戦っています。このように度重なる裏切りをすると、本来は嫌われるどころか処刑も覚悟すべきところなのですが、それでも許されてきたのは、歴代の奥平家当主が実力派の武将であり、敵に回したくない存在だったからでしょう。
そして、三方ヶ原の戦いでは武田方に付いた奥平家ですが、信昌もまた武田勝頼が秘匿していた信玄の死にいち早く気づいていた1人で、元亀4年春(1573年)ごろには、すでに武田家からの(再)離反を考えていました。家康はそんな信昌を取り込むことが武田戦において有効だと見抜き、彼から気のない返事をされても味方に付くよう交渉を繰り返していたようですが、信長からのアドバイスを受け、長篠城と家康の長女・亀姫を与えるなどの好条件を提示した末、やっと信昌を味方に引き入れることに成功したのでした。
ところで信昌は、分家筋の奥平貞友の娘・おふうという女性と結婚していたとされます。しかし、元亀元年(1570年)から彼女の身柄は武田家に人質として差し出されていました。それから3年後、信昌が武田を裏切り、徳川方についたことが確定すると、勝頼の命令により、おふうは他に二人いた人質たちと共に磔(はりつけ)にされてしまったという哀れな末路が伝えられています。これが一説に天正元年の話です。
もっとも、武田の人質となった元亀元年の時点で、おふうは数え年13歳の少女にすぎず、信昌との結婚は形式的なものに過ぎなかったのではないか……とも思われます。妻というより、幼い婚約者という感じでしょうか。信昌はそんなおふうを、武田を裏切って徳川方に付くことで、“捨てた”わけです。信昌が亀姫との婚約・結婚話を受諾したのは、家康という将来が期待される有力者の娘婿となり、その一門に名を連ねることが彼にとって最善策であると冷徹に判断したからでしょう。この結婚のエピソードからは、戦国期における中小勢力の武士たちの生き残りが、いかに厳しかったかが読み取れるような気がします。