ところで、ドラマの本證寺は、沼地に囲まれた広大な敷地を誇り、そこでは積極的に商業なども行われ、岡崎の城下よりもよほど華やかで開けているというように描かれていました。実際に戦国時代の本證寺とその周辺はかなり栄えていたようです。このように寺を中心とした町のあり方を「寺内町」と呼び、お店だけでなく、学校や病院、宿屋まであったといいます。そこに戦国の世で傷つき、社会的に弱い立場に追いやられた人々が次々と流入したのでした。ドラマでも蓮如上人のひ孫が空誓上人だと説明されていましたが、カリスマの血縁者が住職になると、それをきっかけに寺とその周辺が急速に活気づくという現象があったようです。

 三河の一向一揆の開戦時、史実の空誓上人はまだ19歳の若さで、彼が岡崎の本證寺の住職になってからわずか2年後でした。それでも岡崎領主の家康の家臣の半分をも自軍に取り込み、家康軍と1年にわたって激闘を繰り広げられるだけの人望が彼にはあったということです。

 一揆の鎮圧後、空誓上人は、寺から7~8kmのところにある菅田和(現在の愛知県豊田市)の大きな洞窟で、20年以上も過ごし、不遇をかこったといわれますが、その後、なぜか唐突に家康と和解し、両者の間には交流どころか、信頼関係さえ生まれることになりました。かつて、命の取り合いをした敵と親密になるという戦国時代の生き方は、現代人にはなかなか理解できませんが、空誓上人という御仁にはそれほどのカリスマと魅力があったのかもしれませんね。