Ellle Teresa「Versace」

 やはり、ここに可能性がありそうだ。つまり、もはや逃れらないくらいの大文字の枠組みが張り巡らされた現代社会において――もちろん枠があることで多くの困難や問題へ関心が向けられてもいる――「ラッパー」という個人や「ラップ」という極めて具体的で一回性の行為を凝視することでしか浮き上がってこないものがある。

 それはまさに「日々出会う闘争と圧迫が言語化されること自体どれほど価値のあることか」という新田啓子の記述そのものであり、ヒップホップが、(枠組みだけでは見えない)全く異なる角度から風穴を開ける力を秘めていることにほかならない。

 事実、分析的手法で「フィメールラッパーの恋愛表象」を論じた中條千晴は、フィメールラッパーのリリックに見られる内容を精査しながら「彼女たちの恋愛表象は、一見既存の表象から逸脱しているようではあるが、やはり社会化されたジェンダー規範が内面化された従属的な主体化ともいえる両義性があることは否めない」とした上で、「だがその両義的な自己との「対話」に日本のフィメールラッパーの特徴があるともいえるのではないだろうか」(P.123)と結論づける。