zoomgalsが一元的な政治性を自称しない点を指摘しながら、人間に「内側から」アプローチすることや「日々出会う闘争と圧迫が言語化されること自体どれほど価値のあることか」(P.62)と主張するが、そういった「枠組みの布置」に対する禁欲性は今回いくつかの論考に共通して見られる傾向だった。

Queen Latifah「U.N.I.T.Y.」

 二木信は「Awichの痛みとカルマ――反植民地主義としてのヒップホップ」で、Awichの作品がフェミニズムの前向きな可能性を描いていることを認めつつも、「(…)肯定的に評価されるAwichの「エンパワメント」が、資本主義社会の論理に無批判な「自己実現」や「自己啓発」とも親和性があることにもどかしさを感じている」(P.106)と提起する。

 氏は一度アイデンティティ・ポリティクスから離れたうえで、作品それ自体と沖縄史そのものに迫っていくことによりAwichの反植民地主義としてのヒップホップ性をあぶりだしていくのだが、その手法は、「自己実現」「自己啓発」といった既存の安易な枠組みに取り込まれることを禁忌しつつ、「人間に内側からアプローチする」という点において奇しくも新田啓子の主張と共振しているように見える。