◆支払うことが“復讐”

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 あまりに無理筋の要求。しかしそう言われた園田さんは、むしろ迷いが消えたという。

「750万と言われた瞬間、頭がスッと冷静になって、『この先の僕の人生、1分1秒たりともこの人と一緒にいちゃ駄目だ』と確信しました。泣きじゃくられたときは、さすがに気の毒だと思ったんですが、そんな気持ちは完全に消滅しましたね」

 1500万円は「婚姻中に築いた財産」ではないので、財産分与として莉子さんに支払う法的根拠はない。しかし信じがたいことに、園田さんは750万円を支払った。なぜか。

「意見も交渉も、なにひとつしたくなかったし、莉子と一言たりとも言葉を交わしたくなかったんです。それに、そもそもこの要求は、彼女の僕に対する嫌がらせです」

 嫌がらせ?

「離婚して嬉しいのはあなた、ダメージを受けるのは私。だったらあなたも私と同じくらいのダメージを負ってほしい、傷ついてほしい。そういうことです。でもね、そうは行きませんよ。僕は莉子に惨めったらしく値引き交渉なんてしない。眉一つ動かさず750万を払う。言ってみれば……」

 言ってみれば?

「復讐ですね。もっと言えば、福祉」

 語感は冗談めいていたが、園田さんは一切笑っていなかった。

◆結婚生活が“不幸せ”かどうかは誰が決めるのか

“死んで”いた8年間を、園田さんはどう考えているのか。

「いま振り返って、起こった事実だけを並べてみれば、普通の夫婦と違うことを頭では理解できます。ただ、地獄だったか、つらかったかと言われると、ピンと来ない。こうして話していても、淡々と事実を振り返りながら『外から観察しているだけ』という感覚なんですよ」

 あれほど壮絶な結婚生活を送った当事者にもかかわらず、当事者意識が希薄であるという不気味。

「正直言うと、莉子の最初のヒステリーから離婚するまでの8年間の記憶が、すごく薄いんです。起こったことはそこそこ覚えてるけど、そのときどういう気持ちでいたかは、ぶっちゃけほとんど覚えていません」

 なぜ?

「自分をちゃんと生きていなかったからだと思います」

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 感情にふたをして自分の人生を生きていなかったから、記憶が薄い。それゆえ、つらかったという感覚もない。

 だからですね、と園田さんは思わせぶりに言った。

「幸せってなんだという話ですよ」

 やぶから棒に、何を言い出すのか。

「もし僕がランニング中に“気づき”を得なかったら、今も莉子とは離婚していないでしょうし、気づかなければ気づかないまま、莉子との結婚生活は破綻なく続いていたと思います。特に不満を抱くこともなく。

『マトリックス』に引っ掛けて言うなら、現実世界のトリニティやモーフィアスがネオを外から観察し、ネオという存在に介入したからこそ、彼は今いる世界が“嘘”で“不幸せ”で“自分の人生を生きていない”と気づけました。

 逆に言えば、トリニティやモーフィアスという観察者がいなければ、ネオはトーマスとして暮らしている世界が仮想世界であることはもちろん、その状態が幸せなのか不幸せなのかを判定することもできなかったと思います」

 “観察”という言い回しが頻発されたので、思わず「シュレーディンガーの……」と言いかけると、園田さんは食い気味に答えた。

「猫!」