広次が捨て身の献身を果たしたエピソードに話を戻すと、三方ヶ原で大敗した家康を逃がすために、広次は自ら家康だと名乗って武田軍に突撃し、身代わりになって死んだとされます。このように家康の近臣だったとされる人物なのですが、そのわりに史料では「広次」のほかに別名(?)の「吉信」として記されることも多く、人物像はおろか、家系図もあまり詳しくわかっていません。ドラマでは「夏目広信」と間違って呼ぶなど、家康が広次(甲本雅裕さん)の名前を一向に覚えられないというコメディ的な場面がありましたが、このあたりの史料における情報の錯乱ぶりを「家康が名前を覚えられない」という設定として取り入れたのかもしれません。

 ドラマでは第17回の最後、家康の金陀美具足を身につけた遺体を武田軍が運び、「討ち取ってやったわ」と喜んでいましたが、当然ここで家康が死亡するはずがないので、広次が身代わりになった逸話が採用されるのでしょう。広次があの目立つ金陀美具足を代わりにまとって、敵の目を欺くのでしょうか。『御実紀』では広次が金陀美具足を身につけたという記述はなく、家康が自分だけ逃走するのをためらっていたため、家康の馬の尻を手に持った「鑓(やり)の束」で叩くことで、主君を浜松の方向に逃したとされています。一説に広次は家康の兜をかぶり、「我こそは徳川三河守家康なり」と名乗りながら敵陣に突っ込んで、25名の部下たちと壮絶な戦死を遂げたそうで、この説がドラマに反映されるのでしょうか。鎧は着脱に相当な時間がかかるので、戦場で広次が家康の金陀美具足を代わりにまとうのは現実的ではないはずですが……。

 家康の敗走を助けるために身代わりになった家臣は、広次の他にもいたようです。『御実紀』には登場しませんが、鈴木久三郎という人物には、家康の手から軍配をひったくって、広次同様に家康であると偽り、敵陣に突入したという逸話があります。この久三郎の場合、無事に生還したとされています。

 逃走中の家康一行の後殿(しんがり)を務めたのは、本多忠勝の叔父にあたる本多忠真で、彼はこの戦いにおいて命を落としました。ドラマの忠真(波岡一喜さん)は酒浸りで手に震えも出ているような状態でしたが、後殿は実力派の武将が担当すると考えられるので、当時アラフォーだったとみられる史実の忠真は気力・体力ともに充実していたのではないかと想像されます。