これはあくまで筆者の推測ですが、家康と家臣たちが打って出るか出ないかで白熱の激論を交わしているうちに時間が経過し、「今から武田軍を追いかけたら、ちょうど彼らが三方ヶ原を通り過ぎ、下り坂に差し掛かるタイミングで追いつくはず。それならば地の利を活かせるのでは?」という者が出てきたことで、主戦派の家康に同調する家臣たちが増え、慎重派が押し切られる形で、浜松城からの出陣が決まったのだと思われます。そして、兵力で武田軍の半分以下しかない徳川軍にとって、武田軍が狭い下り坂まで来たところを狙って襲いかかり、背後から鶴翼の陣で包み込んで叩けば、勝ち目はあるかもしれない……その程度のずさんな計画しか立てようもなかったのでしょう。それだけ家康が信玄に追い込まれていたとも言えそうです。

 しかし、武田信玄は『御実紀』でも強調されているように兵法の達人です。家康がそうした策で打って出ることを見越していたからこそ、浜松城をスルーしてみせ、三方ヶ原台地の端で彼らを待ち受けたのでしょう。

 本来ならば人数に劣る側が取る魚鱗の陣を武田軍が選んだのは、徳川方を煽るためだったのかもしれません。徳川軍からすれば、作戦が見抜かれたのは衝撃でしょうし、さらに定石でない陣形という“煽り”が加われば、侮辱されていると感じ、武田軍に対して慎重派だった家臣たちも含めて皆、頭に血が上ってしまったことでしょう。その結果、坂道で予定していたはずの鶴翼の陣を台地の上でそのまま展開してしまい、武田軍に突っ込んでいってしまったのではないでしょうか。

 『三河物語』の記述によると、徳川軍は想定以上の強さを見せ、武田の本陣まで迫る勢いもあったといいますから、“煽られた”ことで思わぬ奮闘をしたのかもしれません。しかし、結局は多勢に無勢という言葉通り、数に勝る武田軍が盛り返し、徳川軍の逆転はありませんでした。